姫路城
別名 白鷺城 | 付近住所 姫路市本町68 | 現在- |
2008/11/3 | 碑・案内板・天守閣アリ | 日本城郭大系 |
赤松氏 黒田氏 吉田藩より 池田輝政→ 池田利隆→ 池田光政→ 鳥取藩へ 桑名藩より 本多忠政→ 本多政朝→ 本多政勝→ 郡山藩へ 郡山藩より 奥平 松平忠明→ 松平忠弘→ 山形藩へ 山形藩より 越前 松平直基→ 松平直矩→ 村上藩へ 白河藩より 榊原忠次→ 榊原政房→ 榊原政倫→ 村上藩へ 村上藩より 越前 松平直矩→ 日田藩へ 福島藩より 本多忠国→ 本多忠孝→ 村上藩へ 村上藩より 榊原政邦→ 榊原政祐→ 榊原政岑→ 榊原政永→ 高田藩へ 白河藩より 越前 松平明矩→ 松平朝矩→ 前橋藩へ 前橋藩より 酒井忠恭→ 酒井忠以→ 酒井忠道→ 酒井忠実→ 酒井忠学→ 酒井忠宝→ 酒井忠顕→ 酒井忠績→ 酒井忠惇→ 酒井忠邦 |
播州平野の中心、姫山の上に、白い高雅な姿を見せて姫路城がそびえる。白鷺の飛び立つ様に似て白鷺城とも呼ばれ、西南の役で熊本城が、そして太平洋戦争で名古屋城も昔ながらの面影を留めていない今日、姫路城は名実ともに日本一の名城である。姫路城の歴史は遠く1333年(元弘3年)にさかのぼる。播磨国の守護職、赤松則村が護良親王の令旨を奉じ北条氏討伐の兵をあげて、ここに砦を築き、1346年(正平元年)則村の子、貞範が城館を初めて築いたのである。(最近の研究によれば、赤松築城説を否定し、築城は16世紀中頃の黒田重隆、職隆父子以前にはさかのぼれないとする説が出されている。 -昭和63年(1988年)刊行・姫路市史第14巻「別編 姫路城」- その後、羽柴秀吉が黒田孝高の勧めに従い、毛利氏攻略の根拠地として1581年(天正9年)三層の天守を築いたが、関が原の戦のあと播磨領主に封ぜられた徳川家康の女婿、池田輝政が1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけて完成したのが、現在の五層七階の天守である。 これは西国にある豊臣恩顧の諸将に対峙する西国探題職として、家康がこのように大規模な城を築かせたのである。 そして池田氏のあと入部した本多忠政のとき、その子忠刻の室に千姫を迎え化粧櫓や西の丸を築き、1618年(元和4年)今日見られるような全容を整えた。 その後城主は松平、榊原の諸氏を経て酒井氏が世襲して明治に至った。明治初代、この城も廃棄される運命にあったが、陸軍省中村重遠大佐の建言により保存された。そして幸い太平洋戦争下の被爆もまぬがれた。 昭和6年(1931年)には大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ4棟の渡櫓が国宝に、それ以外の建造物74棟の建物が重要文化財に指定され、昭和31年(1956年)中濠以内107haが特別史跡に指定された。また、平成5年(1993年)12月碑本で初の世界遺産に登録された。 近世城郭・姫路城の成立 天正8(1580)年、羽柴秀吉が播磨に進出して居城を姫路に定めると、石垣や天守をもつ城郭を築き、城下町の整備も開始しました。ここに姫路城は近世城郭としての体裁を整えることになったのです。 関ヶ原の合戦後、池田三左衛門輝政が三河吉田城(愛知県豊橋市)より姫路に入ります。輝政は秀吉の築いた城の縄張りを踏襲しながら、建物については巨大な天守と白漆喰で塗られた櫓群を新築し、大坂の豊臣氏に対抗する意思を誇示しました。外堀を築いて総構とし、「三左衛門堀」と呼ばれる運河を掘削して城下町と飾磨津を結ぶことで町の経済的活性化を図ろうとしました。しかし池田氏はそうした整備が完了しないまま鳥取へ転封となりました。城郭全体が整ったのは、本多忠政・忠刻父子が伊勢桑名城(三重県桑名市)から移ってきてからのことと考えられています。 幻の姫路城御殿 三の丸は本多忠政の時代に整備が進められた曲輪です。その高台になっている場所に「本城」あるいは「居城」と呼ばれる建物がありましたが、これは藩主が生活や政治を行った御殿で、姫路城の中核施設でした。しかし、これまで姫路城にあった御殿については良質な史料がなく、実態は不明でした。ところが、最近になって本多家の家老中根氏の子孫宅から正確な絵図が発見され、その絵図に内曲輪にあったすべての建物について詳細な間取図が描かれていることがわかりました。 この絵図によって三の丸「向屋敷」の構造までも詳しくわかってきましたが、この御殿は、藩主の遊興や接客のための施設だったようです。屋敷地内に広がる池泉式庭園と園内に築かれた茶室や数奇屋のありようは、藩主が政務を離れて風流を楽しむのにふさわしい施設といえるでしょう。 このほかに、西の丸、備前丸、武蔵野といった御殿も確認され、その建物内部についてもわかるようになりました。 入れ替わる藩主 江戸時代の大名が、父祖伝来の領地に根を下ろして統治する例は稀です。大名は幕府の意向によって改易させられたり、領地の変転すなわち国替になることがあったからです。姫路では、約300年間の間に九度もの国替がありました。 姫路藩は播磨国内の諸大名を統括すると同時に、室津や高砂といった瀬戸内海航路の要港をもち、生野銀山や九州、中国地方への街道も通る交通の要衝でした。その上、豊かな播磨平野や瀬戸内海は高い生産力を維持し、様々な物産を城下にもたらしました。「西国将軍」とも呼ばれた池田輝政にはじまり、それ以後は本多、榊原、松平、酒井といった有力な譜代大名が代々姫路藩主を務めたことは、幕府がこの地を重視していたことを示しています。そのため姫路では、藩主に政務上落ち度があったり、また幼少で藩主を継ぐことになると国替になりました。 近代の姫路城 戊辰戦争で姫路城は備前藩(今の岡山)の攻撃を受けました。この時の姫路藩は戦わずして降伏したため、結果として城も破壊されずにすみました。明治に入って姫路城内に陸軍の兵営が置かれることになり、城を中心に周囲一帯に多くの軍関係の施設が建設されることになります。三の丸にあった御殿などはすべて解体され、また旧藩士の屋敷も多くが取り取り壊されて兵舎や練兵場に変わりました。 この時期、無用とされた全国の多くの城が取り壊されたり、また売り払われたりしています。姫路城の天守閣も競売にかけられ、一旦、23円50銭で落札されましたが、結局この競売は成立せず、幸運にもその姿を残すことになりました。その後、陸軍省も城郭を保存する方針に転換し、国費で傷んだ建物の修理もおこなわれました。 なお、姫路城が一般に公開されるようになったのは、ようやく大正時代に入ってからのことです。 千姫と化粧櫓 千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に救い出され、のちに本多忠政の子忠刻に再嫁した。 元和3年忠政が伊勢桑名から姫路15万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住みのまま10万石を与えられ、姫路に移り住んだ。 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。 これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。 千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。 忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、長続きせず、幸千代は3才で早逝、忠刻も寛永3年31才で世を去った。 千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。 この化粧櫓は、中書丸や、武蔵御殿がないいま、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。 |